「Cさんが引退すること、来年の春に決まりました」
ある日、50代の社長から電話でこう聞きました。基礎工事の会社で、社員15名、見積はCさんが30年握っている。Cさんは60代後半、勤続30年、現場上がりのベテラン。引退まで残り1年半。
社長は電話の向こうで一言、「これ、まずいですよね」。
今日は「見積はあの人しか作れない」が会社の急所になる前に、何から始めるかを書きます。
中小企業の見積業務、9割が属人化している話
統計を取ったわけではありません。ただ、30社支援した実感として、中小の製造業・建設業で見積を1〜2人が握っている会社は圧倒的に多い。
「見積は経験で決まる」「相場感は本人にしか分からない」「失注しない値付けは身体感覚」。社長に聞くと、だいたいこの言葉が返ってきます。それでも会社は回る。Cさんが朝出社してPCを開いて、午前中に2〜3本の見積を作って、午後は現場確認。30年これでやってきました。
問題は「Cさんが辞めた瞬間」に出てきます。
Cさんが退職予定だと分かった日に、社長が始めたこと
社長は2つの手を打ち始めました。
ひとつ、Cさんに「30代の営業Dさんに見積を教えてあげてほしい」と頼む。Cさんは「いいですよ」と答える。
ふたつ、過去案件のExcelファイルをまとめて、テンプレ化を進める。事務に「過去5年分の見積、整理しておいて」と指示する。
両方とも始めて半年、社長は壁にぶつかります。
Dさんは現場対応で時間が取れない。週1回Cさんの隣に座る予定が、現場トラブルで月2回まで減る。教わったことも、次に見積を作るタイミングが3週間後で、忘れている。
テンプレ化のほうは、もっと厄介でした。「土質が悪い現場の補正値」「常連客の値引き上限」「夏場と冬場の人工単価の違い」。これらが全部、Cさんの頭の中にしかない。Excelに書こうとすると、Cさん自身が「うーん、なんとなくなんですけど」と詰まる。
そして決定的な日が来ます。Cさんが体調を崩して2週間休んだ。その間、新規問い合わせの見積が3本止まりました。1本は他社に流れる。社長は背筋が冷えました。
「来年の春以降、これが日常になる」
ExcelテンプレでCさんの引き継ぎは終わらない
ExcelでテンプレGをつくる試みは、中小で散々行われています。なぜ続かないか。
ひとつ、案件ごとに条件が違いすぎる。土質、現場アクセス、工期、客先要求。テンプレに例外処理を入れるほど、テンプレが膨らんで、結局Cさんが触らないと完成しない状態に戻る。
ふたつ、過去案件のExcelファイルが100以上あって、横断検索できない。「3年前の似た現場の見積、どこだったっけ」を、Cさんは記憶で引き出している。Dさんは引き出せない。
みっつ、利益率の判断がテンプレに書けない。「この客先は10%乗せていい」「あの現場は5%まで」というCさんの肌感が、テンプレの数式にはならない。
「ExcelテンプレでCさんの引き継ぎは終わる」と思っていた社長が、半年で気づく。「これ、終わらない」と。
見積アプリ化で残せる、3つの会社資産
別のやり方があります。見積をアプリ化して、Cさんの引退までの1年半を「Cさんの頭の中をアプリに移す期間」に使う。
アプリ化に切り替えると、3つの資産が会社に残ります。
ひとつ、過去案件のデータベース化
過去5年の見積Excel100本を、検索可能なDBに統合する。「土質:粘土/規模:150㎡/客先業種:戸建分譲」で叩くと、過去の類似案件と最終金額が並ぶ。Dさんが「見たことがない現場」に当たっても、過去のCさんの判断が引き出せる。
ふたつ、利益率ロジックの言語化
材料費、外注費、人工、経費の積み上げをアプリの中で自動化する。Cさんが「経験で乗せていた利益率」を、客先・規模・季節・地域の条件で分岐させてロジック化する。完璧じゃなくていい。Cさんが見ているポイントが10個でも言語化できれば、Dさんは見積を出せます。
みっつ、Cさんの「肌感」の対話的な引き出し
これがいちばん価値があります。Cさんに「この現場、10%乗せましたよね。なぜですか」と聞くと、最初は「なんとなく」と返ってきます。AIを介して何度か会話を重ねると、「客先の支払いサイトが60日だから」「次の案件の声かけ込みで譲歩した」など、Cさん本人も意識していなかった判断軸が出てきます。これがアプリの中に残る。
3つ目は、Cさんが引退したあとに会社が残す最大の資産です。
「外注で納品されたアプリ」と「社員が作って育てるアプリ」の差
ここで選択肢が分かれます。
A. 外注で見積アプリを作る場合
50〜100万円で見積アプリが完成します。仕様はCさんから聞き取って固定化。納品されて、Cさんは引退、Dさんが触る。半年後、客先要求が変わった。新しい土質の現場が増えた。修正は外注に依頼します。20万円・3週間。
問題は、Dさんが「アプリの中身」を知らないこと。AIに「ここを直したい」と聞いても、何を直せばいいか説明できない。外注に依頼する以外、手がありません。3年で改修費が積み上がる未来です。
B. 社員が作って育てるアプリの場合
2ヶ月で30万円。Dさん(または事務担当)が伴走で見積アプリを作ります。決定的に違うのは、作る過程そのものが「Cさんの頭の中をアプリに移す時間」になること。
セッション3〜4回目、Cさんに同席してもらって「この現場で10%乗せる理由」をAIに引き出してもらう。Cさん自身が「ああ、自分はここを見てたのか」と気づく場面が出てきます。
セッション5〜6回目、過去案件Excel100本を案件DBに統合する手順をDさんが学ぶ。
7〜8回目、Dさんが自分で見積アプリを動かせる状態に到達する。
2ヶ月後、運用はこうなります。Cさんが見積を出すのではなく、Dさんがアプリで見積を出して、Cさんが最終確認だけする。最終確認の場で、Cさんが「ここ、もうちょっと乗せられる」と一言。Dさんが理由を聞いてアプリに反映する。この対話が、毎月の引き継ぎになる。
1年半後、Cさんの引退の日に何が残っているか
何もしなかった場合と、教育プランで内製化を進めた場合を、1年半後の同じ日で並べます。
何もしなかった場合
Cさんが引退する日、Dさんは見積を出せません。常連客から「見積、いつ出せる?」と電話が来て、「今週中に…」と答えるしかない。月3〜5本の問い合わせのうち、1〜2本が他社に流れる。
1年で売上が500〜800万円減る、というのが基礎工事業の規模感です。社長は次の手として、見積担当を中途採用しようとする。年収500万円のベテランを探すが、なかなか見つからない。3年経って、ようやく見つかった人もCさんとは別の流儀で、また属人化が始まる。
教育プランで内製化を進めた場合
Cさんが引退する日、Dさんは見積アプリを使って自分で見積を出しています。案件DBには過去5年分の事例が入っていて、新規問い合わせから2時間で初稿が出る。Cさんの「肌感」はロジックに分解されてアプリに残っている。
引退セレモニーの日、Cさんが「俺の頭の中、ぜんぶアプリに入ったらしいぞ」と笑う。社内に残ったのは、Dさんと見積アプリと案件DB。30年の経験が、会社の中に残る形になっている。
費用は2ヶ月で30万円。Cさんの引退までの1年半のうち、最初の2ヶ月を使うだけです。
まず何から始めるか
「うちにもCさんがいる」と思った社長が、最初に確認することは3つです。
ひとつ、その人が引退するまでに、あと何年あるか。1年なら急ぐ。3年あるなら、ゆっくり進められる。
ふたつ、引き継ぎ候補が社内にいるか。Dさんでなくても、事務担当でも、若手の現場社員でも構いません。「業務を分解して考えられる」「自分の業務を解きたい」の2つに当てはまる人が1人いれば足ります。
みっつ、外注で完結させるか、社員が作って育てるか。3年後に何を会社に残したいかで、答えが決まります。
「見積はあの人しか作れない」が会社の急所になる前に、選択肢を並べ直してみてください。Cさんの引退までの1年半を、何に使うか。それだけで、3年後の会社の姿が変わります。